
物心ついたころ~保育園
物心ついたころから、家では、お父さんとお母さんの仲が悪かった。
いつ、二人が言い争いになるかわからないから、その火種になるようなことを言わないようにしていた。
うっかり言ってしまったときは、お父さんがお母さんを責めたり、お母さんが陰でお父さんのことを悪く言ったり、
自分が悪いと言い聞かせてたりしたから、それがものすごく嫌だった。
聞きたくない。
その場から逃げ出したかった。だから、自分のせいで場の空気が悪くなるのがいやで、
【(私が話すと空気が悪くなるから)話すのは苦手】と思うようになったのかもしれない。
大学生くらいまで、10年以上ずっと聞き続けてきた母の口癖があった。
「私たちの中心はお父さんだから」
「気が利かないと嫌われることを小さいうちから知れる経験は貴重だよ」
「あなたは私と違ってお父さんと考え方とか価値観が近いからよく分かるでしょ。
私とお父さんは根本的に合わないから、何言ってもダメだから…」
母は、父とできるだけかかわらないですむように、自分のやってることを隠すように、いつも父の顔色を窺っていた。
でも、父の意に沿ったことをやらなかったときは、父は母に「お前は嘘つきだ」と言っていた。
母は、お父さんみたいに器用にできない自分が悪いから…仕方ないと、自分に言い聞かせているようだった。
私は、そんな母の言葉をもうこれ以上聞きたくなかった。
だから逃げた。保育園の先生が怖かった。
言うことを聞かないと、先生の言う通りにふるまわないと怒られる。
「ご飯を残さず食べなさい」とか、「早く寝なさい」とか。ずっと泣いていた。
私は一人で人形で遊ぶのが好きだった。本を読んでそこから空想で頭の中で創作することも。
新しい保育園には、かわいくてなんでもできて、みんなから好かれる人気者の女の子がいた。
私も、その子みたいになりたかった。
でも、私は先生から心配される引っ込み思案な子で、同級生とうまく馴染めなかった。
同じくいつも一人でいる子と、親友になった。
あ、卒業式のアルバムに描く絵を、憧れのあの子とそっくりに描いて、上手だねと褒められて満足していたのは覚えてる。
小学生
引っ込み思案な性格は、環境が変わったからといって変わるわけでもなく。
一つ上の人たちが、怖かった。あまり関わりたくなかった。
体育の授業とかで、うまくできないでいたり喋らないでいると、見下されたし、きついこと言われたし、その雰囲気を感じた。
先生も、あまり好きではなかった。
(学年によって好きな先生はいたけど)「給食を残さず食べよう」「発言をしよう」は、私にとっては公開処刑だった。
あと、ジャングルジムに乗れなかったら、(なんでできないの?)っていう顔をされて、親に心配ですと話していたのは覚えている。
意見が言えないから、目をつけられて、クラスメートからバカにされたり、命令されたりした。
嫌なことも断れなかったから、これ以上嫌われないようにしてた。
でも、要求と違うことやったら、睨まれて、暴言吐かれたりもした。
悔しい。
言い返したかった。
でも、言い返せなかった。
これ以上、自分が惨めな思いするのは嫌だったから、クラスメートとか、
先生とか、上級生の顔色をうかがって、でしゃばらないように、何も言われないようにしていた。
感情を表に出したら泣きそうだったから。必死に心を殺していた。
でも、そうやって過ごしていたら、小5のとき、DVの担任に、「自分の考えを言え!」と死ぬほどいわれた。
だって、考えを出したら、空気悪くならない?自分の考えを否定されない?
本当は私だって自由に話したいし、自由に動きたいよ!
嫌われても気にせずに堂々と自分らしく振る舞える、そんな自由な自分でいたかった。
自分の感情を大事にできる自分でいたかった。
けど、大人が・先輩がゼッタイだったこの頃は、その思いに気づけなかった。
毎日、親や先生、先輩の言われた通りに、なんの疑問も持たず生きてきた。
あと、周りに嫌われないことを気にして、同じく周りから嫌われていた保育園の頃の親友を切り捨てた。
代わりの「親友」をつくろうとして、取っ替え引っ替えして、
その子に「クラスの女子の中で誰が一番好きか、順位つけるとしたら?」って聞いて、
「〇〇(私)が一番だよ」と言ってもらって安心してた。最低だ。でも、自分の価値を守るために必死に頑張ってたんだな、と、振り返って思う。
嬉しかった記憶もある。リレーで他の子を抜けたり、絵や習字、感想文が入選したときは、ほんとに嬉しかった。
言葉を使わずに自分を出せるから。そして、それが周りに評価されて、自分には価値があると認められたようで。
中学生
成績で評価される環境が、後に仇となるけれど、当時は自分に、学校という箱庭の中で、唯一無二の価値を与えてくれた。
部活は、特に小学校時代から持ち上がった一つ上の先輩達から何か言われるのが嫌だった。
運動は、小学校時代に親や先生から心配されていて、自分でも苦手だと思い込んでいたから、運動部自体がそもそも嫌だった。
ただ、小規模校で部活が選べなかったから仕方なく。
しかも、女子は、私が苦手な大きいボールしかも団体スポーツのバレーボール。
先輩からは「真面目にやれよ」と睨まれる。
確かに乗り気ではないけど、自分なりに頑張っているつもり。
でも、試合には出させてもらえなかった。
自分が戦力外だと言われているようで、悔しかった。苦手だけど、実力はないけど、肩書きは欲しかった。
(しかも、メンバーになれなかったのは、私と切り捨てた元親友の二人だけで、
彼女と一緒にされるのだけは、自分は価値がないと言われているようで、どうしても嫌だった。)
反対に、勉強は気持ちよかった。
根本にあるのはおそらく、【原理に納得して使いこなせるようになりたい】という欲求だと、今は考察している。
そこから、何回か繰り返して、理解して、納得して、そしたらテストで点を取れた。
気づいたら、私は毎回成績1位を取り続け、周囲からは「頭のいい人」認定されていた。
「バケモンだろ」とか、「天才かよ」と驚嘆されるのが気持ちよかった。
自分の内側の欲求【わかりたい】と、外側に求める欲求【良い成績を取って評価されたい】【自分を認められたい】が同時に叶ったのが、勉強だった。
そして、勉強をクラスメートに教えていると、さらに満たされた。
内側の欲求【わかってほしい】【納得してほしい】(→納得できれば、自分の力で前に進めるようになるから)
やっぱり、一番は私が自分らしさを出したかったし、根本の思いには、【自分の限界を超えて力を出す】ってことがあったのかな…?
この当時は、自分が〇〇したい、にしか気づけなかった。
だから物事の表面だけを見て「勉強が好き」「教えることが好き」っていうところまでしか見つけられなかったのかな。
でも、【自分が好きなことで価値を提供して、顧客の中で自分の存在意義を高めたい】と、なんとなく気づいてはいたんだと思う。
中3になって、部活やめて、勉強一筋になった時が、一番幸せだった。自分の価値が下がることがなくなるから。
でも、進路では親と価値観がぶつかった。私は「頭のいい普通科の高校」(自分のコンフォートゾーンに合ってるから。
ネームバリューもあって周囲から称賛される気持ちのいい状態で、校内でも勉強の才を発揮して自分の価値を高められそう。)がよかった。
一方で、父親は「商業高校」(手に職をつけていないと、この先の時代に自分が活躍できる場所がなくなるから)を、(今思えば、父の判断は先見の明があったと思う。)母親は「近場の高校」(送り迎えが楽。電車通学は不安だしお金がかかる。
その分のお金を大学進学に回したほうがいい。)だった。
結局、進学したのは「家から車で10分の進学校」、つまり、母にだけ妥協することになったということ。
多分、父よりも母とかかわることのほうが多くて、母の様子とか考えていることが、自分に移ったからかも。
あとは、母に反対すると、母は自分を否定されたんだと思って、ヒステリーを起こしたことが何回かあった。
私はその姿を見るのが、苦しくて、嫌だった。
今回もそうなって空気が悪くなるのを避けたんだと思う。
はじめは、父の意見に従っていた。でも、商業高校はそもそも行く気が無くて、まったくと言っていいほど、眼中になかった。
商業高校に行って、普通科よりもランクが下がることへの、今のクラスメートたちに対する劣等感。
みんな普通科に行くから、私も当然そっち。
そして、みんなから県内一の進学校にもいけるんじゃない?と言われていた。
だから、父の意見には反対する必要があった。
そこで考えた、もっともらしい理由が、「将来、学校の先生になりたい。」父からは、「教員は離職率高いよ」と言われた。
あと、教えることよりも生徒や保護者に舐められないか、と心配された。
その不安は私も、心のどこかにあった。それでも、普通科に行くため!まだ先のことだし、何とかなる、と楽観視していた。
私は、「それでも、先生になるために普通科に行く。」と言い切った。
父は、私が決めたならと、反対はしなかった。
でも、父の忠告は不安として胸の奥に残り続けていた。
私は、自分が空気のように周りに従うだけじゃなかった。
選択肢は限られていて、100%自分の望む結果ではなかったけど、自分は意見を言ってもいいんだって。
自分の生き方を自分で決められるんだって。そう気づけたのは初めてだった。
高校生
入学してすぐのテストで1位を取れてから、高校でも成績は変わらずずっと、学年1位だった。
中学の時よりも、ライバルが増えて模試で全国とも勝負するようになって、張り合いが生まれた。
高校に入ると、親にいろいろと言われなくても自分で勉強するようになった。
課題の量が中学とは比にならないほど増えて、勉強漬けの高校生活だった気がする。
でも、充実していた。
ほかでもない、理解できると、使いこなせてテストで点が取れると、自分が気持ちいい、という内発的な動機と、
先生やクラスメートから尊敬や称賛を受けたいという、外発的な動機がすべてだった。
勉強はやっぱり、自分がその他大勢の空気から、主人公になれる、自分にとって特別な武器だった。
頭のいい、少し変わったクラスメートに恋をした。
その子と授業が一緒だったり、席が近くで話せたときは、その子しか見えていなくて、周りが見えなくなっていた。初めて自分から告白した。
でも、振られた。何が起こったのかわからなくて、1か月は食事も睡眠も満足にできなかった。
そして、仲の良かった友達が別の友達のことをよく思っていなくて、私はどっちの味方になればいいのかわからなかったこともある。
人間関係の痛み、難しさを味わった。でも、当時の私は自分が好きな人や友達から悪く思われていないか、気まずくないかばかりを気にしていた。
今の自分しか見えていなかった。
でも、学校生活は全体的に楽しかった。
心からの第一志望校ではなかったけれど、入ってみたら、学力高くて勉強熱心で張り合える子もたくさんいたし、
クラスの雰囲気も担任の先生も、私を受け入れてくれた。環境には恵まれていた。
でも、進路選択は少し後悔している。
「先生になりたい」という、普通科に行くための外付けの目標に縛られて。
(実際、教師へのあこがれはあった。100%本心ではない理由が、あこがれの感情と合わさって、
人に公言しているうちに、本心にすり替わっていってしまったんだと思う。)
そして、母の「お金貯めるために、一人暮らしは心配だから、
自宅から通える県内の大学に通ってほしい」という期待を、抵抗なく受け入れてしまったから。
結論、私が選んだ大学は、母の期待通り、そして私の“目標”通り、「自宅から通える、県内の国立大学教育学部」。
高校と同じく、入ってみたら、環境はよかった。
自分の世界を広げてくれた、面白い友人や先生、先輩、部活、バイト、イベントなど、様々な人脈と経験に出会えたから。
でも、推薦入試に落ちてから、少しずつ気づき始めてきた。
(私は、世界史の先生になって、すでに決められた、制約のある内容を教えつづけることよりも、世界史そのものをもっと深く知りたい)ということに。
そして、(子どもには、学校には、実はそんなに興味がない)ということに。
ただ、大学の実際を知らなかった私は、行こうとしていた学部(母校)が“教員になること”を前提として、
教員になるためのスキル習得が中心の専門学校的な学部であると知っていたにもかかわらず、
「県内で、教員免許が取れて、学びたい世界史が学べる所」という条件がそろっていた母校を、ほかの選択肢を見ずに選んでしまった。
自覚し始めた自分自身の気づきと真剣に向き合うことをせず、
「高校の世界史の先生になる!そのための理想の条件がそろってる!」とどこか楽観視していたんだと思う。
そうでなければ、もし、県外にまで視野を広げていたら、
母の期待にこたえられなくなりそうだったし、自分のゴールがもっと跳ね上がって、
理想の環境に学力や小論文、面接のスキル、お金、生活力など、今の自分では到底届かないと、
現実とのギャップを突き付けられるのが怖かったから、かもしれない。
改めて、なぜ、大学選びに後悔しているか?
自分の実力や、「本当は○○したい!」というwant toと100%向き合い切らずに、
「先生」という目標を見直すことをせずに、もっともらしい理由で、心からではなく、
頭で考えて、決めてしまった。(教授や環境など、心から「いい!」と思って選んだ要素もあるけれど)
高校生に戻るなら、もっといろんな大学の、いろんな学部を見て、自分の心の興味と向き合って、よく考えてwant toベースで進路を決めたい。
あとは、部活も自分で選びたいし、課外活動も本気でやりたい。ホームステイもやりたい。
面白そう!と思ったことは、片っ端から試したい。東大の授業も聴きに行きたい。
そして、マインドの使い方を、このころに知りたかった。
そうすれば、親や周りの目など、周囲の環境と、それが作り出す自分のマインドブロックを超えて、
いろんなことに挑戦できたと思う。本当はもっと、上を目指したかった。失敗を気にせず。
大学生
憧れていた大学生活は、コロナにすべて奪われた。
友達作りもサークルも、バイトもできず、やるせない気持ちのまま、
家にこもってPCの前でオンライン授業を受けて、課題のレポートを提出する毎日。
でも、そんな毎日が、皮肉なことに、私の学力のポテンシャルを引き出す最高の環境だったのだ。
授業と課題にだけ集中できる環境で、自分が納得いくレポートを完成させるために、時間も労力も注ぎ込んだ。
大学生最初の成績は、GPA3.7/4。多分、学科で一位だった。
大学生になっても、GPAという成績が入ることは心外だった。でも、私は大学でも、「頭のいい人」として、同級生からすごい、といわれた。
でも、知っていた。
大学の先に待っている、就活や教員採用試験では、大学での成績はほとんど判断材料にならないことを。
それよりも、大学時代にどんなすごい活動をしてきて、どんなリーダーシップを発揮して、どんな実績を上げたのか、という、
自己PRやガクチカのほうが大事だということを。知っていた。
でも、私には成績があるから、それをアピールすれば大丈夫、と、見ないふりをしてきた。
コミュニケーション力や問題解決能力などの、社会人としてのスキルや素養が私にはないと思い込んでいた。
母からは、「あなたから勉強取ったら何も残らないよね」と言われてきた。
私自身も、私には勉強しかない、と思い込んでいた。だから、見ないふりをしてきた。
目の前の授業、テスト、レポートに必死だった。バイトも始めたのは3年生になってからだし、サークルも、レポートを優先して、ほとんど行かなかった。
友人には、もっと手を抜いてもいいんじゃない?と言われたこともある。
私もそうしようとした。でも、できなかった。
特に、好きだった科目、歴史や哲学、経済なんかは、納得できるまでなかなか仕上がらなかったし、期末レポートは数日かけてやっと仕上げた。
ほかの子よりも点数が低かったら、悔しかった。
多分、達成感を味わいたいという内発的な動機と、周囲から「すごいね」と言われたい、思われたい外発的な動機。
大学でも、成績は私のアイデンティティで、自分を取り囲む世界で、自分が主人公になれる唯一無二だった。
そして、2年生になってから、自分のやりたいことが、「教員」から、少しずつ動き始めた。
専門科目を学ぶようになって、歴史や哲学など、社会科の学問的知識そのものをもっと深いところまで突き詰めたいという思いが強くなった。
「大学院進学」へと、私の気持ちは傾いていった。
そんな中で、教育実習を経験して、(学校の枠に染まりたくない!コロナ禍でできなかった青春をもう一度やり直したい!
県外でもっとレベル高いことがやりたい!)という思いが強くなって、院進を本気で考え始めた。
一番は、今まで育ってきたNoが言えない、箱庭のような環境を抜け出したかったんだと思う。
自分のポテンシャルをもっと発揮したかった。今までやりたいことができなかった消化不良感から生まれた本当の想いを、
県外の高学歴な大学院に進学するという形で実現しようとしていた。
なのに、私は、そのゴールに自分で蓋をしてしまった。
理由は、「お金がない」「多額の奨学金を返せるのか?」「文系の院進は就活に不利になる。」
「院は、一つの分野を深く研究する場所。私は、“研究”をしたいよりかは、もっと“学び”たい。そんな生半可な思いで院に受かるとは思えない。」
親だったかもしれないし、先生かも。ネットの言葉を真に受けたこともあった。
とにかく、私は周囲の意見に流されて、そして、無意識にハードルを設定してそこから逃げて、いつの間にか、「院進」という選択肢をあきらめていた。
私は自分の(できない)という思い込みで、(やりたい)を諦めた。
「高いレベルにチャレンジして失敗したら、社会のレールから外れるから怖い」
結局、これまでの居心地よいコンフォートゾーンに戻ってしまった。
そのあと私は、やりたいことが分からなくなり、ゼミの教授に相談した。
そこで、「公務員」という、新たな進路に変えた。公務員の中でも、私が特に興味を持ったのは、「大学職員」だった。
思い入れの強い大学にいられること、夢を持った志の高い学生と一緒に何かできることにワクワクした。
ただ、それほどの志高い大学生が集まるのは、通っている大学のように、
地方でそれなりの学生生活を満喫してなんとなくいい会社に入れればいいや、と思っている大学ではなく、
東大や京大、早慶などの、有名で高学歴で高倍率の大学。東大?行ける?いや、倍率どうせ高いし厳しいでしょ…
それに、教授と違って、職員と学生は密接に関わる機会がほとんどない。もっと積極的に学生とか企業と関わっていきたい、と思っていた。
進路に迷い始めたこの時期から、私は今のところ一番であろう、人生のどん底を経験した。初めての彼氏から、付き合って2ヶ月目で別れを告げられたこと。両親の離婚騒動。そして、進路が決まらないことへの迷いと焦り。本当にやりたいことを立ち止まってじっくりと考えるという頭も余裕も、当時の私にはなかった。負の感情に押し潰されながら、なんとか正気を保っていた。今は笑い話にできるけど、よく鬱にならなかったなぁと思う…。
早く解放されたい。苦しい。でも、どうしたらいいか分からない。そんな出口の見えない闇の中で苦しんでいた。
就活に話を戻すと、あれから、私と同じく教員にならず、公務員や民間企業を目指している人と話したり、
状況を聞いたりして、私より進んでいる周りに焦りながら、コロコロと進路を変えた。
まず、公務員なら複数受けないと、第一志望が落ちた時にセーフティーネットがないよ、と聞いて、県庁や市役所対策を始めた。
でも、この時点で他の公務員志望の人より、勉強のスタートが遅れていた。
この現状にまた、焦る。なんとか間に合わせなければ、と、闇雲に勉強していた。
でも、民間との併願も考え始めてからは、試験勉強どころではなくなった。
民間企業は公務員試験に落ちたときのセーフティーネットとして調べ始めた。
就活解禁の3月になってから、説明会にも2.30社参加した。
そして、自分に合った仕事を探すために、就活エージェントを使い始めた。
勧められたのは、「人材紹介」「人材派遣」「生命保険」「エンジニア」など。(多分、エージェントを抱えている人材紹介会社の報酬もあってだと思う)
でも、私はそもそも、(社会人としてのスキルが人より劣っている)と思い込んでいた。
だから、説明会を受けて、(この企業いいな)とおもっても、「なぜウチなの?」と聞かれて答えられる気が、面接を突破できる気がしなかった。
(実際に、エージェントに勧められた企業は数社受けたけど、書類選考の段階で落ちた。)
そして、この時点で公務員は、勉強が追いつかないと諦めて、民間一本での就活にシフトチェンジした。
(これも、周りの友達が何社か民間受けてて、そっちに流された。)
たまたま、地元で名前を聞いたことがある塾の説明会に参加して、「営業しない」「人間力を大事にする」という理念がいいな、と思った。
どこも内定が決まらなかったときの保険として、面接を受けたら、内定が決まった。(私でも内定もらえるんだ!)と、少し嬉しくなった。
その後は、友人が塾の事務職を受けていたのを見て、(これも半ば流されて)学校ほど閉鎖的で思想に染まりきってる空間ではなく、
生徒対応よりも授業に重きを置いているという理由で、かつての夢だった、
「勉強を教えることで人の心を動かす」ことができる、塾講師に興味を持ち始めた。
理想は、高校生向けに、世界史を教えられる塾。
私の、より専門的なことを学びながら伝えたいという思いがあった。
一方で、一番気合を入れていた高校の教育実習でも、生徒をのせる面白い世界史ができなかった、
というセルフイメージブロックとして働いていて、心のどこかで(私は、面白い授業ができる先生になれないんじゃないか)という思いがあった。
県外の狙っていた塾を数社受けたけれど、どこも最終面接の前に落ちた。内定をもらえたのは、結局、新卒入社したこの会社だけだった。
私は、持ち札が完全になくなった夏頃には、就活のモチベーションを失くしていた。
(どこへ行けばいいか分からない)というよりも、
(どこへ行こうとしても、私の今までの努力や私自身の価値をうまくアピールできないし、結果、認めてもらえない)と言った方が正しいのか。
そんな諦めがあった。
中学生から今までずっと頑張って力を入れてきた、努力する姿勢やいい成績は、就活市場では価値の高いものではなく、
仕事に必要なコミュ力や課題解決能力に負けてしまう。
(これも、今振り返れば、自分にあったスキルだけど、当時の私は、これを発揮できたと感じた経験がなくて、スキルがない、と思い込んでいた。)
就活中にエージェントから、こう言われた。
「東大とか京大みたいな有名一流大学で「学年1位」なら、誰が聞いても凄さがわかってインパクト強いけど、
地方の国立大で1位でも、それが世間一般から見てどれだけすごいのかが分からないから、自己PRやガクチカとしては弱いよ。別のエピソードない?」
なんとなく気づいてはいた。「勉強できる」人が、社会人として評価されるわけではないということに。
でも、中高大とずっと、「勉強できる」「頭いい」「真面目」「努力家」で、自分のアイデンティティを保ってきたから、
そのアイデンティティを壊したくなくて、勉強以外の自分のことは見ないようにしていた。
「コミュ力なくても頭いい」は、むしろ自分の愛すべきキャラだと自分で思っていた。
でも、就活という課題に直面して、改めて、私は勉強以外の自分の短所を克服する努力をしなかったことに気付かされた。
そこから逃げてきたツケが回ってきたのだ。私が今まで必死になってやってきたことは無意味だったの?
じゃあ、なんで大人たちは大学に行ってまで、「いい成績をとる」ことにこだわらせるの?教えてよ。誰か。
努力する姿勢は大事なんじゃないの?なんで、そこを見てくれないの?
見てくれない周りもだけど、いちばん腹が立つのは、魅せられない自分だ。変わりたい。
コミュ力持ちたい。言動ひとつひとつが人の心を掴んでやまない、インフルエンサー的存在になりたい。
でも、私には、きっとできない…
結局、納得はしきっていないけど、内定をもらえた地元の塾に就職した。
内定承諾を半年間待ってもらった恩義と、校舎の先生や社員の方の人柄の良さ。
あとは、母の勧めと、これ以上別の進路を考えたくないという気持ち。
考えて、やっぱ違った、と気づくのが怖い。
変わるのが怖い。
変わったとしても、4年の秋のこの時期で就職先があるのか?そして、あったとしても、面接突破できるのか?…、いや、ない。そう思い込んで、諦めた。
4年になって焦りを感じたからなのか、ガクチカをつくるように、学科交流会や学園祭の出し物、学生イベントを企画・運営してきた。
でも、当時はどれも「やりきった」感はなく、うまく回せずに友達に迷惑をかけてしまったこと、
リーダーシップを出せず役に立てない悔しさの方が、強かった。
私がいると場の空気が悪くなる。私がだめにしてしまう…。
そんな、幼少期からずっと抱えていたマインドブロック。消えずに私の(変わりたい)という想いを阻んでいた。
環境は私に新たな視野を与えてくれた。私の先輩や後輩、友人は学生団体の代表をやっていたり、
新たに団体やイベントを立ち上げたりしていて、すごくキラキラしていた。
(内情の大変な話を友人から聞いていたので、実際はイメージと違ったんだろうけど)社会人と話す、活躍している学生の話を聞く、
自分の好きなものを語る…私は友人や先輩、後輩から誘われたイベントには可能な限り参加した。
私の“本当にやりたいこと”が見つかる気がして。自分を変えたくて。
やりたいことがはっきりしていて、それに向けて全力で動けている、自分を思いっきり出せている、そんな友人や後輩のようになりたかった。
…でも、みつからなかった。キラキラした学生や社会人の話を聞いて、(すごい、自分も○○でこんな風に生きたい)と思っても、あれ、違う、これも違う、とぐるぐる悩んで、結局(私にはオタクレベルに突き抜けていることがない)と思い込み、ずっと“参加者”から先に進めなかった。そんな自分にくすぶった思いをずっと抱えていた。
結局、大学を卒業するまでいろんな場所に足を踏み入れてみたけれど、自分がリーダーシップを発揮できる「やりたいこと」は見つからなかった。
大学を卒業するとき、首席で学部代表に選ばれたけど、一時のうれしさよりも、就職したくないという不安と、
一位になったところで自分の達成欲と承認欲求が満たされたけれど就職に有利になるわけじゃないよな、と、腑に落ちない「就職」を引きずって、純粋に喜べなかった。
社会人
納得内定して入った会社ではなく、ここで表現力やコミュニケーション能力を磨いたら3年後とかのタイミングで、高校の先生とか別の職種にチャレンジしようかな、と考えていたので、入社した当初から、会社への帰属意識はあまり高くなかった。
そして、学生時代に校内での勉強以外に力を注がなかったゆえに就活で失敗した経験から、同じ轍は踏むまいと決めていた。
社会人になってすぐ、どんな企業でも活かせるポータブルスキルだとSNSで見て学生時代に少し勉強していた簿記を取ろうと、
休みの日や出社前の時間を使って、勉強をはじめた。結果、2級まで4か月でとれた。
パズルをはめていって合わせる感覚が心地よく、効率的に正しい方向で努力して成果を出せるんだ!と、
就活のときに一度失いかけた私のアイデンティティを少し取り戻せた感覚があった。
そして、簿記のさらに先に、三大国家資格の「公認会計士」という資格のことを知って、
勉強を頑張って誰もがすごいと認める頂点に輝けるかもしれない!と、胸が高鳴った。
そして、会計士になって、就活の時に目にして少しあこがれを抱いていたコンサルや、
独立してお店を開くという選択肢があることを知って、会計士になってお金稼いで自由な生き方がしたい!という思いが強くなった。
同じタイミングで読んでいた『苦しかった時の話をしようか』という本から、
「仕事は自分の得意なことで選ぶべき」ということを学んだ。
私は、本に従って好きなことを洗い出しながら、自分の強みを分析した。
就活の時みたいに、「自己PRのため」とか、「企業にアピールできるか」とか一切気にせずに、
「if」で自分の適職なんだろう??と考えられたのは楽しくて、夢中になれた。
ここで、自分の強みは「思考力」「分析力」ということが改めてわかった。就活の時よりも腑に落ちた感覚があった。
一方で、「塾講師」という今の仕事は、「表現力」「伝える力」「ユーモア」が求められるが、それを苦手としていて、
職場でもなかなか、生徒の目を引かせる授業ができずに悩んでいた。
先輩、上司の先生からは、「続けていれば、いずれうまくいくときがくるよ」と言われた。
私もそうだと、頭では信じていた。
でも、心のどこかでは、自分には話して人の心を動かすよりも、一人で黙々と考えて何かをつくりだす方が向いていると、悟っていた。
だから、本音を言えば、今すぐ塾の先生をやめて、院進とか会計士を目指したかった。
どっちも時間も労力もかかるから、いずれできたらいいな、の目標だった。
当時は仕事で消耗していたエネルギーを回復するために、
そして仕事では得られなかった自分の価値とか存在意義を感じられるものが欲しくて、自己投資に精を出す日々だった。
この自己投資が、私の人生の転機となった。
私を大きな後悔を伴う自己投資もあれば、生き方を180°変える衝撃を与えた自己投資もある。
まずは、失敗談から話そう。
今はだいぶ気持ちに整理がついて、人前でも話せるようになったけど、半年くらいずっと、
サンクコスト効果(既に支払ってしまって取り戻せない費用(サンクコスト)に影響されて、合理的な判断ができなくなる心理現象)に悩まされ続けてきた。
マルチ商法に引っかかって100万円を失った。
投資コミュニティの会員になって、入会金と1年間のメンテナンス費として、100万円を投資した。
きっかけは、マッチングアプリで知り合った男性に、「今は言っているコミュニティがすごくよくて、イベントとかもあって、すっごい自信ついたんだ。
よかったら、代表の人すごい人だから、話聞いてみない?」と言われた。
そして、話を聞いた。自分のことも話した。代表の人も、私と同じような境遇だった。
過去に家族仲が悪くて、自己肯定感が低かった。
でも、このコミュニティに入ってお金を稼げるようになって、自信ついて、明るくなれたんだと話していた。
お金も成功も手に入れられた、こんな人になれたらいいな、という淡い期待を抱いた。
100万の貯金を失うのは怖いと話したら、ローンを借りて分割で返せば、稼いだら元はとれるよ。
そう言われて気持ちが揺らいだ。
今の私には自信がなかった。迷っていた。
会社で苦手なことを毎日頑張って、いざという時に備えて資格の勉強して、毎日限られた資産と時間で自分を律して生活していた。
自分はホントはこんなんじゃない!もっとすごい成果が出せて、もっと周りから尊敬される、すごい人なんだ!と証明したかった。
苦手な人前で話すことを克服するという希望も込めて、塾講師という仕事を選んだのに、仕事を始めても、
人前でうまく話せないという苦手感、コンプレックスは拭えず、やる気のない生徒をなんとか励ましたり時には怒ることもして、
その場凌ぎのやる気を出させることに手一杯な毎日。
「合わない」「辞めたい」という気持ちと葛藤しながら、続けていればいずれ慣れると上司に言われ、
自分に言い聞かせて毎日湧かないエネルギーを搾り出して自分を保って必死に頑張っていた。
何かが違うとくすぶっていた。
だから、ここで本当に変わりたい。
自分に自信を持ちたい、という思いで、契約を交わした。
…でも、実態は、株式投資でわずかばかりの利益を得て、それで喜んでいるような集団だった。
(こんな小手先のテクニックだけで100万の元とれるほど稼げるの?!)という違和感はずっとあった。
けど、払った100万を無駄にしたくなくて、言われるがままに投資の勉強をした。
ぶっちゃけ、本屋で2000円くらいで売られている本や節約系Youtuberの無料の動画のほうが分かりやすいし、価格に対する質が低すぎると感じた。
(多分、儲かってる人は、紹介料で儲かってたんだと思う。)
月1回のミーティングもやる気になれず、講師から注意されて、その内容に納得できなくてイライラして、さらにモチベーションが下がった。
イベントに一度参加したけど、内輪ノリがきつくて、ついていけないと思った。
それ以降、まったく顔を出さなかった。結局、残り半年くらいの期間だったけど、
ここでの自己投資にこれ以上時間を使いたくないな、と思って、退会した。
退会するまでには、自分の失敗を家族に打ち明けたし、私のロールモデルにも相談した。
やっと自分の中で気持ちの整理がついて、ようやく決断できた。
もうひとつ、失敗談。それは、公認会計士講座の奨学金制度に申し込んだこと。
会計士に興味を持ってから、本気で会計士になることを目指した。受講代は72万。
一括では支払えないな…と悩んでいたところ、スクールの奨学金制度(支払いは分割、無利子で3年後から返済開始)に目をつけて、
書類を書いて申し込んだ。そしたら、幸か不幸か、審査に通ってしまった。私は嬉しくて、早速勉強を始めた。
しかし、それから1か月しないうちに、自己理解メソッドに2か月近く夢中になった。
結果、自分の本当のゴールは、公認会計士とずれていたことに気づいてしまった。
(自己理解メソッドは、それこそ私の人生を180°方向転換して前進させることになったきっかけなので、後述する。)
私が公認会計士になりたかった理由は、得意なこと(=勉強)で、唯一無二のポジションに輝くこと。
そうすることで、インフルエンサーになって、好きかつ得意の自分らしい領域で最大限自分のもつ能力、自分の価値を発揮できると思ったから。
そして、叶えたかったのは、「公認会計士」よりも、その先にある、
「独立して好きなお店を経営すること」、そうすることで、好きなことでお金を稼いで余暇も楽しめるという、
自由で余裕のあるライフスタイルを送りたかったんだ。
私が会計士を目指すのをやめるきっかけになった、ロールモデルに言われた。
「そのやりたいことは、会計士にならないと実現できないんですか?」
その通りだった。奨学金を申し込んだときに書いた、「実現したいこと」の中にも、
少し“自分らしくない”と感じる違和感があった。
お金を正確に計算できることが、本当に私のやりたいことなのか?
それよりも、会社とか国の経営の課題を解決して、社会全体のお金の融通をもっと円滑にして、
一個人や一会社、日本ができることをもっと増やしたい。
イノベーションの可能性を広げたい。
また、サンクコストに執着していた。100万円につづけて、また大金を溝に捨てるのは勇気がいることだった。
怖かった。でも、私は、本当にやりたいことで生きていくんだ、と心に決めて、
今まで勉強してきたテキストを段ボールに詰めて、押し入れの奥にしまった。
さて、今まで話題に上っていた、私が「本当にやりたいこと」で生きていこうと決断するきっかけの話がようやくできる。
私が総額200万近くを支払った投資コミュニティも、公認会計士の勉強も、すべてやめる決断に至ったのは、ある出会いがあったから。
すべてのはじまりは、1本の動画から。入社して約4か月たったころのこと、
『世界一やさしい「やりたいこと」の見つけ方』という本を出版している、八木仁平さんの、『やりたいこと相談会』を偶然目にした。
サムネが少し気になって、ながらで再生してみた。
これが、私が「やりたいこと」に目覚めるすべてのきっかけとなった。
これは偶然ではなく、運命を決める必然だったのかもしれない、と今は思う。
相談者はいろんな資格に挑戦したり、たくさん転職したりして自己投資をしているけれど、
山の頂上が見えなくてずっと霧の中をさまよっているような状態なことに悩んでいた。
私と同じだった。少し安心した。私と同じように、行動しているのに焦点が定まっていなくて自分が何者にもなれていないことに悩んでいる人がいることに。
(八木さんの相談者は、だいたいどの人も同じような悩みを抱えていた。)相談者に八木さんはこんなことを言っていた。
「あなたのやってることは、心の底から湧き出る、ワクワクするような「やりたいこと」なの?なんとなくかっこいい、とかのイメージで決めたり、
流行ってるからと、外側の環境に流されて他人軸で決めたりすると、(こんなはずじゃなかった…)って後悔して、やることをコロコロと変えることになるよ」
今思えば、私が目指してきたものは、肩書や憧れからくるイメージ、つまり、他人軸基準のことばっかりだったんだ。
学校や塾の先生は、“好きな勉強をきわめて人を引き付ける授業やトークで次世代のロールモデルになりたい”という憧れから、
高校や大学選びは、母の軸と自分自身の過小評価、就活で悩んだ進路先も、会計士も、
世間からみられるイメージや周囲から尊敬されたいという他人軸が少なからずあった。
これらの基準が優先して、“世間からどう見られようと、
たとえ「やめたほうがいいよ」と止められようと、やってしまいたくなることか?”という、
心の内側にある自分の声に耳を傾けられなかった。
そして何より、自分からもう逃げたくなかった。
(本当にやりたいことは)これじゃない、それも違う、…とさまよってきた姿が、
私の今までと重なって、「逃げている」という八木さんの言葉がぐさりと突き刺さった。
自分の弱さから逃げてきた。人前で堂々と話せる自分になりたいと思っていても、それができていない自分と向き合うことが怖くて、教師という夢を諦めた。
変わりたいのに、今の自分を受け入れられなくて、逃げて、自分の可能性を自分から摘んでしまっていた。
院に行くことも、大学職員も、民間も、全部、諦めた。これは“諦め”という名の“逃げ”なのか。
どっちでもいいけど、ただひとつ、私の想いは…。今の自分のままは嫌だ。変わりたい。逃げたくない。
動画で、八木さんが相談者の悩みを解消していく中で、自分が抱いていた同じ悩みを解決する糸口がつかめた気がして、気づいたら、八木さんの自己理解メソッドの動画を、会計士の勉強そっちのけで見入っていた。
このメソッドを使って自己理解をして仮定した「本当にやりたいこと」は、
一人ひとりに合った自己理解を整理して届けることで、納得した生き方で個性を発揮できる人を増やす
私にとっては、「大事なこと」「得意なこと」「好きなこと」という3つのシンプルな要素に分解して最後に合体させる方法が体系的で、
効率的に最適解を求めるのが好きで得意な自分に合っていた。
そして、「仮定でいい。変わってもいいから、とりあえず決めたものでやってみる」という考え方に納得できた。
教師になりたいと言っていた大学生までの私は、実は、教師になって面白い授業しながら子どもたちを諭している姿は、
それができている自分がイメージつかなかった。(自己効力感が低かったから、というのはあると思う)
一方で、自己理解メソッドで仮定した「本当にやりたいこと」…一対一で相手の悩み相談に乗りながら、
その人の本当に叶えたい生き方を引き出している自分…は無理していなかった。
飾らない自分がイメージできて、どことなくワクワクしていた。
そして「本当にやりたいこと」を仮定したら、不思議とそれに向かって行動できるご縁が次々と舞い降りてきたのだ。
まずは、半年前に参加し始めた朝活コミュニティで、自分が話す機会をいただくことができた。
私はこの場で、自分のやりたいことと、それを見つけた方法、本当にやりたいことが分からなくなってさまよってきた私の過去を話そうと思った。
参加者たちが称賛、応援してくれたことと、「宣言したからには動くぞ!」と、納得感を持って動けるスイッチが入った。
そして、ありがたいことに、私の継続参加と発表がきっかけだったのか、運営の方に、会の司会をしてみないかと誘いを受けた。
大学生のころからずっと望んでいた、「参加者」から「つくる側」へのステップアップが、叶った。
次に、フリースクールで小中学生向けに、ワーク形式で自己理解メソッドをかいつまんで実践する授業を始めた。
(このご縁は、朝会で私の発表を聞きに来てくださった、フリースクールの代表の方と後日話をした際にいただけた。)
人前で話すことには、相変わらず緊張感がある。
でも、メソッドで八木さんから、「得意なことは、人よりできることじゃない。
つい、体が勝手に動いてしまうこと」「苦手は克服しようとしなくていい。あきらめる=明らかに見ること。自分の弱みを受け入れたら自然と動けるようになって、気づいたら克服できてるよ。」という言葉をもらって、(私はコミュニケーション苦手だからうまくやらなきゃ。)という、強迫観念や焦りは少しずつ薄れていった。
(私はやっぱり人前で話すの苦手だなあ…。でも、苦手なりにやってみよう。)と、代表の方からも思考法のアドバイスをいただいて、そう自分に言い聞かせるようになった。“ありのままの自分を受け入れる”って、こういうことなんだ。
肚の底から体感できた。
そして、仮定した「本当にやりたいこと」を行動に移す機会もやってきた。
八木さんの自己理解メソッドを使って、自己理解のサポートを始めた。
1人目は、朝会での私の発表を聞きに来てくれた後輩が、「ひとみさん、こんなことやってるよ~」とその子に紹介してくれて、話を聞くご縁をいただけた。
その子は、自分がこの先、どんな進路に進めばいいか悩んでいる、という相談だった。
私は、「こういう方法で自己理解を進めていけば、やりたいことが見つかるよ」と、
自己理解メソッドを紹介して、私が取り組んだ質問をいくつかその子にも投げかけた。
会話の中で友人や後輩の相談に乗ったことはあったが、自分がいわば「先生」的ポジションとして、
人に説明しながら相談に乗るのは初めてだった。
だからはじめはすごく緊張した。
私が緊張するとやりがちな、冗長な説明をひたすらしていた記憶がある。
そして後日、その子に質問と回答、そこから仮定した「やりたいこと」を言語化したワークシートを作って送った。
そしたら、「今までぼんやりしていた自分のやりたいことがはっきりと見えてきた気がする!」と感謝のDMが。
私も誰かに価値を届けられたんだ。と、その時思えた。もっといろんな人の自己理解をサポートして、悩みを解消したい。
そして、その精度を上げていきたい、と思って、個人のインスタで「こんなことやってます!」という発信を始めた。
主に相談に乗ったのは、高校や大学の同世代や後輩。
相談に乗るたびに、「自分のことをじっくり見つめるいい機会になった」とか
「自分ではぼんやりしていた価値観とか強みがはっきり見えてきた」という感想をもらえた。
私は相談に乗ることで、自分の強みは言語化力なんだな…!と改めて実感できて、自分自身の自己効力感も上がった。
ただ、まだこれだけでは足りない、という感覚はあった。本当は、悩み解消だけでは足りなかった。
その先の、やりたいことを実際に叶えるところまで、自分が支援できるスキルがあればいいのに、ともどかしく感じていた。
私も、自己分析は就活中にたくさんやったし、社会人になってからも、本を読んだり、
適職診断やストレングスファインダー、自己理解メソッドと、いろんな自己分析ツールに片っ端から手を出してきた。
でも、それでも、メソッドに出会うまでは、納得感を持って前に進めなかった。
自己分析した瞬間は、「自分はこれが強み!」「こんな生活したい!」とはっきりとわかったような感覚になって、
「なんかできそう」感が高まるけれど、時間がたつと(でも、今の自分じゃ無理だよな)と、結局元の安心できる“コンフォートゾーン”に戻ってしまう。
自己分析して強みを見つけても、その強みを自分のキャリアとどう結びつけたらいいのかわからない。
見えてはいても、自分の今の生き方とはかけ離れていて、未経験だから、(自分にできるのか?)(会社は雇ってくれるのか?)と自信を持てなくなって、
時間がたつにつれて、結局いつもの仕事を脳死のように繰り返す日常に戻ってしまう。
やりたいことが分かっても、自分がそれを本当にできているイメージがわいてこなければ、
そしてそのイメージにワクワクしなければ、動き出す一歩はいつまでたっても踏み出せない。
…だから、相手のやりたいことを“見つける”にとどまらず、“歩き出す”までサポートしたかった。
そんな思いをぼんやりと持ちながら、がむしゃらに行動して発信して、人とつながろうとしていたとき、
私と同じように“自己実現”とそのサポートをする仲間との出会いがあった。
まずは、私が会計士でも先生でもなく、「本当にやりたいこと」で生きたいと決断するきっかけをくれた、ロールモデルとの出会い。
この人と話したことで、私の「本当にやりたいこと」を叶える最も理想の手段、「コーチング」のことを知った。
この人は、コーチングで独立していて、1000人以上の悩みを解決に導いてきた、まさに、ロールモデルだった。
この人と話す中で、マルチや会計士講座でサンクコスト効果に自分がはまりかけていたことに気づき、やめるきっかけになった。
「お金も時間もすべてが手に入り、なんでも自由にできるとしたら、何をやりたいですか?」と問われて、
出てきた答えは、「“イメージコンサルタント”と“コーチング”で、自分の外側も内側も自分らしさを磨いて、全開で発揮させられるようになりたい」。
この人のコーチングを受けて、私は、会計士でも先生でもなく、「本当にやりたいこと」=「イメコン×コーチング」を生業にしたい、と本気で思った。
そして、ゴールの実現のために障壁となる、トータル200万の自己投資を切り捨てて、
ゴール実現のために必要な経営力をオールマイティーで実践しながら養える、ビジネススクールに、その人の紹介で入会した。
もう同じ失敗は繰り返したくなかった。だから、自分で心から納得できるまで高額の自己投資はしないと決めていた。
だからこそ、今回は真剣に考えた。入らないこともできた。
「私は納得できないことにはNOと言える」という自己効力感も、この時すでにできていたと思う。
でも、その選択を取らなかった。今までの人生、環境や自身のマインドブロックで制約されてできなかった、
「本当にやりたいこと」を思いっきりやりたかった。本気で自己実現したかった。そして、決断した。迷いはなかった。
ちなみに、イメコンを目指したきっかけは、このビジョンありきだけど、色や心理にもともと興味があって、
大学生のころにパーソナルカラー診断、骨格診断、顔タイプ診断をプロのイメコンの方から受けたら、自分に似合う系統が分かって、垢抜けして変われたから。
そして、このゴールを決めてから、イメコンの方を探していたら、
「タイプに自分を寄せるではなく自分の魅力にタイプを掛け合わせることで自己肯定感高めるカウンセラー的イメコン」という、
まさにロールモデルのイメコンの方と出会った。
話を戻すと、ロールモデルのコーチの方の紹介で、東大で500人規模でプレゼンするイベントの運営やキャリアバーという企画の運営、
そして、有料で同じくコーチングを生業としている方から本格的なコーチングを受けるなど、
学生時代の私だったら、喉から手が出るほど欲しい、
でも、自分がやったとてうまくいかないし場の雰囲気悪くするだけだし、…とブロックして見えていなかったチャンスを次々とつかみ、
挑戦して、気づいたら、(教育しかやったことない。でも向いてない)と自分自身を過小評価していた今までの私では想像もつかなかった景色、
十人十色の色んな生き方が見えるようになっていた。
そして、“できない”から“できるようになるには何が必要?”という、ゴールを叶える前提の前向きな思考ができるようになっていた。
現在
今の私の「本当にやりたいこと」、ゴールは、
「私とかかわるすべての人を、最適で最高の状態にする」
そのために、「自分はこんなことをやって日本や世界にこんなインパクトを与えたいんだ!わからないけどなんかワクワクする!」と確信をもって、
自分の力でゴールをつかみ取れるんだと実感できるマインドに導いていく。
ゴールを実現すれば、その人もエネルギーとノウハウを社会に与えられるようになる。
そうすれば、その人の周囲も思考が変わっていく。
今まで小さなことに執着してたのがちっぽけに思えてくるくらい、なにか社会に影響を与える大きなゴールを達成したくてうずうずしてくる。
こうして、自己実現に夢中になれる人が複利的に増えて、社会の大多数になって、
世界中の全人類が本当にやりたいことで生きられるようになれば、くだらない戦争もなくなる。
みんな、自己実現に夢中になれば、隣人や隣国のくだらない足の引っ張り合いも、どうでもよくなる。
そして、自分のやりたいことを叶えるプロセスで、自分のコップは“幸福”で満たされて、そのエネルギーがあふれて、今度は隣人も幸せにしたくなる。
その輪が自分から波紋のように広がっていったら、世界中の全人類が幸福になるのではないか?
一億総幸福、ひいては、世界総幸福。そんな世界を、愛している私の祖国から、そして私自身から作りたかった。
私のこれまでの経験から、ゴールに納得感をもって、「自分はゴールを達成できる」という自己効力感を持てれば、
自然と行動できるようになることは、実体験から確信していた。
私は今、会社を辞めて、コーチングで独立を目指している。
脱サラして、フリーランスや起業で、会社に縛られない生き方を目指す道を選んだのだ。
会社を辞めたいと上司に伝えたのは、朝会で発表した1ヶ月後くらいのこと。
その時は、公認会計士になることを目指していたので、「勉強に専念するため」という理由で辞めると伝えた。
でも、今はその道とは別の道を選んだので、完全に口実になってしまっているけれど。
時々、自分の選択は“逃げ”だったんじゃないかと、罪悪感を感じることもあった。
自分に向いてないと思い込んで職場を1年ちょっとで辞めて、「公認会計士になる」とか声高に言っておきながら、結局は公認会計士になる道も捨てた。
「また逃げたの?」そう言われても否定できないくらいの逃げっぷりだ。
上司の先生たちは何も言わずにいてくれるけど、忍耐力がない、とか思われてそうだし、なんなら自分がそう思ってる。
結局、「好きな社会科で人を惹きつける話ができるようになる」ために入社した塾を辞めたのだから、本末転倒ではないか。
でも、辞める決断をしたことの後悔は、不思議と感じていない。
自分が心からワクワクして、好きも得意も活かせる、自分が本当の意味で幸福になれる「やりたいこと」を、
人生80年のうちのできるだけ早いときから実現するために、ここで忍耐力とトーク力を鍛えるよりも、自己実現をして、他者にさせるために必要なマインドセットや本質思考、幅広いゴールに対応できる知識や人脈などの資産をつくるほうが、私の中では価値が高いと判断した結果だと、今では堂々と言える。
「人前で堂々と話せる人になる」よりももっと大きなゴールを設定したから、表現力や影響力は、
それを目指す過程で自然と身についていくだろうという、根拠のない確信がある。
実際、今の私は、学生の頃とは比べ物にならないくらい、いろんな人と関わって、
いろんな場で自分をさらけ出して、いろんな人に影響を与えられていると思う。
あとは、その結果を自分が肯定的に受け止められるか次第。
今、過去に選択してきたあらゆるものを失くして、“安定した”肩書は、ほとんど手元には何もない状態だ。
(お金も。)怖いか?と聞かれたら、不安はまだある。なにしろ、生活がこれからどうなっていくかわからないんだから。
でも、うまくいくかという不安よりも、早く自分の手で誰かの人生を変えたい。その想いが、燈となって、私を動かしてくれている。
もう、逃げない。
今まで、自分には「勉強しかない」「真面目が取り柄」と思っていて、
それができないときにはずっと罪悪感に苛まれていたけど、幼少期からずっとやってきた、誇れること、あった。
「行動をやめない」
どんな挫折を味わっても、立ち直る方法を考えて、考えて、必死に前に進んできた、向上心。
自分にとってマイナスな状態を改善するために、いいな、と思ったコンテンツに足を踏み入れる行動力。
そんな私が好きだと言ってくれた人にも出会えた。
今は、パートナーが私を受け入れて、応援してくれるおかげで、心を保ちながら、しんどくても前に進めている。
良縁に、本当に感謝しかない。
幼少期からずっと続いてきて、私の人間関係のマインドブロック形成の一要因だった両親の不仲も、
よくなったとはいわないけれど、少なくとも、お互いの価値観を真っ向から否定して言い争いになることは、なくなった。
(ここに落ち着くまでの過程も、二度は思い出したくないようないざこざがあったけど、叔父の助けも借りて、なんとか喉元過ぎて熱さを忘れるまでになった。)
そして、まぁ、お互いそれぞれの価値観は受け入れられていないけど、少しだけ歩み寄る姿勢を見るようになった。
母も、私と叔父で説得して病院に行くことを決めて、鬱(正確には、適応障害)を治している。
感情の波を前よりコントロールできるようになって、ヒステリーを起こすことも少なくなった。
そして、私が母と離れることによって、自分で決めて、自分の意思で行動できるようになったのもあると思う。
一人暮らしを社会人になってから始めた。高校生の時に、母から止められ、私も(自信ない)と思い込んでいた一人暮らしだけど、
始めてみたら、案外なんとかなることに気づけた。(これは、彼氏と同棲するようになった影響も大きい。)
「お金がないからやりたいことできない」という思い込みも、すべて自分のマインドを自分でブロックしていただけだった。
“先行投資”という考え方を、今通っているビジネススクールで身につけてから、自己投資にかけるお金を、
自分のゴールを実現するために必要かどうか、よく考えたうえで使うようになったので、買ってから後悔することは減ったと思う。
今、できないと思っていることも、やってみたら案外できるし、見える景色も広がる。
だから、(やってみたいけど…)(でも怖い…)と躊躇していたら、迷わず「やる」選択肢を選んでほしい。
そこでジャマをしてくるのが、自分のマインド。一方で、自分が想像していなかったところまでいけるのも、マインドの力。
マインドセットは1人では限界がある。
なぜなら、コンフォートゾーンが、今までの安心・安全な自分の世界に引き戻そうとするから。
だから、私が手を引いて、山を登り切れるように、支えたい。頂上の景色を、手を引いて、一緒に見たい。
私の支えで夢が叶った人は、同じように、自分を変えられずにくすぶっている人の手を引いてあげてほしい。
夢を叶える人の輪を、日本そして世界中に広げていきたい。
私はこれから、「本当にやりたいこと」、人生のゴールを実現するために、
今まで、周囲の環境や自分のマインドに阻まれて、逃げて諦めて後悔してきた人のゴールをひとつずつ叶えていく。
私はできる。根拠はない。でも、なくていい。方法は、これから歩いていく中で見つかるから。
何度だってやり直せる。命と時間と健康な身体がある限り。ここからもう一度、リスタートする。
人生はいつでも、何度でも、上書きできる。自分が、そしてその周りがより幸福になれる生き方に。
一緒に叶えよう。今まであきらめてきたことを。心の底からワクワクすることを。真っ白な、本当の自分で生きることを。